先生のものがたり
先生の 物語 (1)
あらためて、
先生の持ってきた酒をテーブルの真中におき、
あたらしい三人衆の夜の密談が 始まった。
先生はぐうと一杯飲み干した後で、ここだけの話と前置きをして、
不都合な二人のいきさつを話し出した。
先生は東京近郊の脳科学研究所で所長をしていたことを 自ら告白した。
秘酒の成分は心の緊張をほぐし 主人に従順な飼い犬のような性格に
人を変える作用があった。
そして不都合な二人の身の上話が始まった。
もう主人公は女主人ではなくなっていった。
先生は第一線の狩人だった。
最近の高次脳疾患の研究の第一人者と目されていた。
大勢の研究者が押し寄せて新しい研究成果を出す分野だけに、
自分だけのペースで研究ができなくなったことをまず告白した。
先生はその脳科学研究所で、10年位前に、
優秀な助手を米国の大学からヘッドハンテイングしたのだった。
その若手研究者こそ今日ここにやってきて
すでに深い眠りの中の森の美女のような、
そして今は不都合になった若い女である。
今、不都合な女には2階の一番奥の部屋が当てがわれ、
その隣室が先生の部屋になっている。
くろかわは馴染の女主人に乞われてやむなく逗留を決めたので、
廊下を反対側まで歩いた一番遠い部屋に陣取っている。
その部屋には今、先生とくろかわと女主人が四方山話に夢中になっている。
先生の身の上話は 秘酒が随分と進んだ頃には 佳境に入っていった。
先生と若い女=北川が初めて遭遇したのは
東京の郊外の 脳科学研究所だった。
そこで開かれた 仲間内の会合に、
当時職探しをしていた若い女がするりと現れたのである。
タイミングといい、 経歴といい、
そしてルックスも先生にはぴったりの候補者であったから、
先生はまず 北川を助手見習いと実験器具準備係で
研究所に置いたのである。
実験準備というのは要するに器具洗いである。
空き時間には、自分の研究めいたものもして良いという密約付だった。
先生の 物語 (2)
約1年の試用期間が過ぎた頃、
北川の欠点というのが見えてきた。
それは月曜日の朝の妙な行動だった。初めは気にならなかったのだが、
何度も同じことの繰り返しで、
とうとう先生の疑心暗鬼が頭をもたげた。
彼女は日曜日の夜半まで酒宴に参加することが頻繁で
疲れた体で研究所に現れた。
初めは北山の就職祝いと言っていたが、
いっこうに終わる気配がなかった。
そんなこんなで一年半が過ぎた頃、ある有名雑誌に、
先生の論文内容が再現できないという報告があった。
先生のオリジナル実験の再現がなかなか出来なかったのだ。
先生は、新参の北川助手に追試を手伝ってもらうことにした。
ちょうどこの時期に、古株助手は家庭内のもめごとがあったようで、
ほとんど実験に対する集中力が無くなっていた。
古株助手は長年の研究生活に疲弊しており、
自分の実験に自信を持っていなかった。
そこへ加えて家庭内のもめごとが噴出し、実験に身が入らなかったのだった。
古株助手は アルコールに手を出す生活にのめり込んでいた。
かくして 新参の北川は全くの幸運を手にした。
古株助手が積上げた失敗の山、
ネガテイブデーターを手際よく整理し、
古株がやっていない方法を思いついたのだ。
それは結局、これまでの実験を、
純度の高い試薬 で行うことで、
簡単に再現が出来た。
というのも、新参の北川の米国での経験がうまく役に立った。
新参者の北山はその試薬のノウハウをよく知っていたし、
この点だけが古株助手よりも秀でていたのだ。
この結果を知らされた先生は、自分の実験として直ちに国内誌に投稿し、
自らも学会発表をしたのだった。
要するに分かったことは、古い試薬では
酸化による分解 が起こっていて、
結果が再現されない ということだった。
赤色色素のシコニンは 古い伝統的色素であって
むらさき色素 と呼ばれた。
先駆的な女性化学者によって、
その構造が明らかにされたのは
化学史を飾る一ページであったことは
北川もうすうす知ってはいた。
そのシコニンの炎症抑制効果のメカニズムについて 論じたものが
先生のオリジナルな研究であり、
慢性炎症を抑制できると結論づけた。
そして シコニンによって癌転移の抑制が出来るかもしれない
という独断的な仮説が述べられていた。
シコニンは漢方薬紫雲膏につかわれているものである。
従ってシコニンは強い抗炎症作用があったのだが、
酸化されやすく
安直な実験条件では分解することもあったのだ。
従って夏の実験と
冬場の実験では これは分解に差が出るのは当たりまで在り
古株助手は 暑い夏の盛りに再現性が
取れなくて自暴自棄には待っていたのだ。
かくのごとく たかが夏 というだけのことだが
あわてた狩人は 道を見失うことがある。
まるで真夏に
冬の八甲田山に迷い込んだようなものである。
すべての生物は 温度と時に支配されているのであり、
生物実験の再現性は 温度と時間という黒子によって
操られているのである。
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