2016年12月17日土曜日

黒毛山荘 こもり うた (完)

https://www.youtube.com/watch?v=bo6dGDS6b-k





錯覚の 森

 
 

誰かが誰かの影を追いかけて 暗い山中に迷い込む。

追いかける人も 追いかけられる人も  黒い山中に迷った狩人である。

主人公は追いかける狩人なのか、

逃げる狩人なのかも

わからなくなってくる。

そうして 踏固められた道ができていくが、

それはまた新たな 迷いにもなる。

かくして人間の仕業は、

誤解というスパイスで味付けされた一本道になる。

誰かがつけた足跡を 同じように辿っている

ということにふと気がつくか

あるいは 全く気がつかないかだけの 

些細な違いである。

そういう意味で、人はみな料理人であり 

同時に物語のライターでもある。

 

世の中を流れるものは たいがい他人事から始まり、

それを適当な味付けをして

面白可笑しくしていると おおかたのライターは感じている。

読者の目は、その面白可笑しさという味

だけを求める 誤解の目 我欲のまなざしである。

読者はただの傍観者であり 誤解の森の狩人 なのである。

誤解の種があるから文章を書くのであり 

それが読者を刺激している。

シャドウライターの仕事は誤解の中に眠っている栗を拾い集めることである。

誰も拾わない 燃え尽きた栗が実は 面白いこともある。

路傍の栗拾いもまたシャドウライターの仕事であると感じている。

 

そんなシャドウライターのくろかわが行く渓谷には古い洋館があった。

道路に面した誇大広告の看板が傾きながらもまだ掛けられたままである。

時代錯誤の館と呼びたくなるような佇まいは、虚構と虚無と迷いの世界を旅し、

駄文という泥水を世間という濁流に流し終えた後の疲れと欺瞞をいやすには、

この山中が格好の喫茶処であった。

 

一杯の泥色コーヒーを飲干すのもまた人生の一時である。

今書いてきた泥の物語を忘れたいのだ。

れる空間は誰にも必要だ。

忘却の森の入口にあるその洋館を 黒毛山荘 とか

くろげやかた と呼んで親しんできた。

くろかわの書くものなどは 流れゆくだけのもので、

ここの骨董品にも及ばないというのが自己評価である。

世の中の毒も薬も ちりあくたもすべて 飲干してきた。

勝手な文章も勝手な意見も自分で作ったものは自分の道である。

一番そこから 自分の間違いに気づくものだ。

そして新しい道をみつけることができるようになる。


 

 

 

黒毛山荘 子守唄

 
 

午後には 黒毛山荘の喫茶室は暖かく快適になっている。

シャドウライターが羽を休め、景色に身を任せる空間である。

昼寝の時が流れた後、部屋にやってくる複数の足音が聞こえた。

目覚めた空間がどこだったのかをすぐには分からないくらいに

まだ夢見心地の空間で、わけありの迷いの物語は始まった。

 

部屋の暗い隅に 品のよさそうな男女が無言で座っている。

疲れた男の顔が崩れそうな家具調度の中に浮かんでいた。

連れの女の顔は見えないが、男のほうは午後の日差しの中によく見える。

古びたメニューに目を通し、店の女が注文に来るのを待った男は、

たばこを取出し口にくわえライターを探した。

 

男の声がやむと、堰を切ったように連れの女のすすり泣きが始まった。

話が一区切り付いたところで、喫茶店の女主人が部屋に入ってきて

コーヒーとケーキを置いて微笑んだ。

女は連れの男を<先生>と呼んでいた。

これからの身の振り方を相談しているかのごときで、

しきりに無言の懇願を 体であらわしてしていた。

 

やがて女主人が不都合な二人の前に水を継ぎ足しに来た。

ぞんざいに注文を告げてから先生と呼ばれる男は再び電話を取出した。

仲裁役の男を呼び出しこの山荘に来てくれるよう再度催促した。

仲裁役の男は現れそうになく、これ以上の話は無駄のようにも感じていた。

 

女主人はこの二人のよどんだ空気を察知したのか、含んだ笑みをたくわえていた。

女主人は泣き崩れた女の横顔をみて悟ったような顔つきをし、うなづくしぐさを何度もした。

女主人は何度もこういうケースに遭遇してきたようだし、

何を隠そう、自分自身の身の上にしても同じようなものだった。

女主人は同病相哀れむという憐憫をまとった神の使いになっていた。

 

くろかわは遠くから女主人が共感の羽を羽ばたかせていく光景をじっと眺めていた。

黒い毛の羽根がじゅうたんの上にも落ちているような訓間が出来上がった。

陽射しの陰か、古びた調度の陰か、重い空気か、さまざまな要素が今山荘にふりそそぎ、

不都合な二人にとってこの山荘は、黒毛の駆け込み寺のようになっていった。


 



 

習慣の森



不都合な二人はどこにでもいる。

しかしそれは、長い歩みの後に不都合になっただけである。

長い間の習慣から不都合の煙が立ち上ってくるものだ。

だからしばし歩みを止めてみて

くすぶっている火の中の栗を取り出すことも必要なことだ。

 

不都合の栗をつつく努力だけでも必要なことである。

それがシャドウライターの仕事だとくろかわは感じていたが、

まだ何もしないただ佇んでいるだけでの傍観者にすぎない。

子守唄を聞きながらまどろんでいるだけである。

 

やがて女主人とくろかわは庭を歩いたがやはり山の空気は寒いので、

せり出した小さなガラス張りの茶室へ移った。

茶室からはさっきの不都合なふたりのシルエットが動くのがよく見えた。

喫茶室の女主人は、今日やってきた不都合なカップルの女が、おそらくアルコール依存であることを感づいていた。この山荘は訳あり者の宿であり、

しばしの雲隠れの宿であり、濁流の捨て場であった。

 

その昔、山小谷の村民が病人を隔離するのに使ったのがこの建物だった。

華麗な避病院だったという いわく付の宿、メンタリズムの宿だった。

それを知っている村人は好んで中には入らなかったが、通りすがりの旅人には

これが格好のドライブインになった。

(不都合な女のほうは、そんな いきさつを辿ってここにやってきたのかも知れない。)

 

生活は習慣から成り立ち、習慣は疑いのない力となり、森となる。

そして不都合な習慣はやがては依存に発展するものだ。

依存の谷はいたるところに眠っている。その谷に入ってはいけないのだが、

狩人の傲慢さが 獲物を求めて習慣の森を 作ってしまうのだ。

習慣の谷はやがて 幻覚の谷になっていくこともある。

 

童話の中にあるように、森に出かけた狩人が道に迷うことはよくある。

狩が出来なくてとほうもなく疲れ、幻覚の声を聞くことがある。

森の中には様々な幻覚が眠っていて、自分を呼ぶ声だけが聞こえる。

森に出かけた挙句の果てに、<山猫軒>というような料理店に迷い込むこともあるのだ。

 
 


https://www.youtube.com/watch?v=f7xnyyIciMY


 


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