2017年2月5日日曜日

路駄人伝 ①



路駄人不信伝 その1.

 

世の中の人の心はたいてい 人間不信の木 である。

それはまた 自分自身の芯 がない裏返しでもある。

不信の影が長いほど そうではないように 振舞うものだ。

しかし 影は消えることはなく とどのつまりは

本人すらも 飲み込んでしまうのだ。

 

だから人は単純なものを渇望し 安心できるカリスマに引かれ

群れ集まるだけのことであり 蛾 と同じ習性が在る。

人間社会で この上なく単純であり 尚且つ安心なもの

それは 主従関係 である。

人間不信は結局 人をかりそめの主従関係 に導くものだ。

 

新撰組 という集団を見れば 一目瞭然寺。

新撰組から 分離独立を果たした

伊頭仮死太郎のメンタルも 単純に出来上がっていた。

這上がりのメンタルであり、要は主人を間違えないことと

いたく傷つけないことであった。 

この飼い犬メンタル と手練手管によって、各所の養子先名跡を手に入れ、

総てを 立身栄達の土台にしてきたのだった。

 

従って 京の都でも同じメンタリズムで振舞った、

新撰組を 自らの新しい養子先と決め、

得意の弁舌と機転で あっという間に 頭角を現したのだった。

しかし所詮は他人ふんどし の域を出ないことは明らかであり、

自分がいくら 努力成果を積み上げても 肩書き に過ぎなかった。

大家 あるいは大集団の付属品 であることには違いなく、

ワンオブゼムの集団部品として 扱われるだけだった。

 

伊頭が最も欲しかったものは、

自分の新しいふんどし であり、家紋の柄であった。

激動の時代こそ、武家の象徴は その家紋絵柄であって、

一目瞭然の優位性を示すものでもあった。

他人には使われることのない 自身の絵柄こそが、

伊頭の脳裏を去来する 蛾のように

思考を 仮死状態にしていったのである。

 

伊頭が欲しがった家紋絵柄は何だったのだろうか。

考えることはないし、まとまらないのである。

手の届くもの、貰えるものを片っ端から貰っていけば良いのである。

この他人ふんどし を喜ぶメンタルと、

片端から手を伸ばすメンタル こそが本性であった。

それらがたまたま 首尾よく手中に入ってきた人生だったのだ。

黒毛豚は所詮は 豚である。

 

食欲の生き物であり 食欲の餌食である。

いくら頑張っても、食われる運命にあった。

問題は 誰に食われるかであるから、

伊頭が 生み出した 御陵衛士とはまさに

御陵の 餌食だったのである。

 

山南がそうであったように、新撰組ではNO.3 がそこそこであり、

土方の上には這い上がることは出来なかった。

土方にしてみれば、NO.2 は自分以外には考えられず、

支配と組織造り こそが彼の立場を保障するものであり、

生命線 となった。

 

這い上がりメンタルは 基本的には

オプテイミステイックな楽観主義者 でなければやってられないし、

暗さを脱捨てた ポジテイブ姿勢こそが、

彼自身のオーラ となって流れ出して行ったのだった。

オーラ などというものは元々ない幽霊のようなもので、

本人は 何も持ってはいないのは明らかだ。

 

オーラや カリスマ的なものは、

それを見る相手の心象であり、ご都合主義の幻影である。

人はみな 人間不信であるから、その度合いに従って 大きな幻影を見てしまい、

それは良くも悪くも ご都合主義的な淡い期待 でしかないのである。

ないものねだりの ご都合主義 とでも言おうか、

自分にないがすぐ身近にあって欲しいだけの あまえんぼうの

隠れ蓑のような 影でしかないのだ。

 

 

 

この得たいの知れないカリスマ性を 発散させるのが、

伊頭には得意中の得意であり、

それは人が考え付く一歩先 までじゅうたんを敷いておいてから、

招き入れる 魔法であった。

 

カリスマの魔術の タネ明かしをすれば

簡単なトリック であるとすぐ気がついてしまう。

過去の中に己の投影を 見出せばよいのである。

誰かを過去の中から引きずり出して 利用すればよいのである。

あるいは自分自身の 先祖などが手っ取りはやいかもしれない。

 

 

かくして

誰かが誰かの影 を追いかけて 山中に迷い込む。

追いかける人も 追いかけられる人も 山中に迷った影武者である。

主人公が影武者なのか、見えない幻影なのかは わからなくなってくる。

そうして踏固められた カリスマ道 ができていくが、 

それはまた新たな迷い にもつながっているのは 間違いない。

疑惑と不信でふちどられたぬかるみ であることは 間違いない。

きれいなあぜみちも ふみつければ くずれた泥塊にすぎない。

 

かくして 人間の仕業はたいがい、 

都合のよい誤解 というスパイスで味付けされた 一本の道になる。

誰かの足跡を 同じように辿っていることに ふと気がつくか

あるいは 全く気がつかないかだけの 些細な違いである。

そういう意味で、人はみな料理人であり 物語の脚色家 でもある。

 

世間を流れるものは おおむね他人事から始まり、

それを適当な味付けをして 新聞記事の見出しに貼り付け

面白可笑しくしているだけであると おおかたのライターは自嘲している。

 

カリスマとゴシップに飢えた読者は 今日の餌に前進する 豚である。

読者は、その面白可笑しさという味 だけを求めている 

誤解と我欲の旅人である。

読者は、ただの傍観者であるのに スリルを求めてやまないから

誤解の森の狩人になるのである。

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